写真を撮るということ
前回の投稿から1年以上経過していました。
気が付けば元号すら変わっていました。
こわい
最近、友人が教養主義に目覚め、美術館巡りにはまっています。
きっかけは不純異性交遊のための話題作りだったっぽいですが、それが転じて美術そのものに興味を持って結構しっかりと勉強されているようです。
なんであれ見聞を広めるのは素晴らしいことですし、彼は僕よりも賢いのですぐにいっぱしのアート語るおじさんになってくれるでしょう。
実際彼は訪れた展覧会の感想をブログやツイッターで共有してくれるので、僕自身かなり勉強になります。
ということで僕も最近観に行った写真の展覧会から少し思うところを書き起こそうと思いました。
内容としては、あまり展覧会自体の内容に関わるものではないのですが、写真そのものへの興味関心につながればいいかな、という感じです。
結論としては、みんな写真はとりあえずたくさん数を撮ろうってことです。
それでは本文どうぞ。
先日まで、京都では様々な場所で写真展を行う『KYOTOGRAPHIE』というイベントが開催されていました。
残念ながら期日が5/12までなので、この記事を読んでいただいた方がもし興味を持たれても、すでに終わっているのが悲しいところです。
この辺に僕の行動力のなさが伺えます。
さてそのKYOTOGRAPHIEですが、僕は京都文化博物館でやっていたアルバート・ワトソンという方の展示に行ってきました。
このアルバート・ワトソンという人物、存命の写真家で主にポートレートを多く撮影されていて、「VOGUE」などの雑誌の表紙も多く制作されています。
展示されている作品もヒッチコックやミック・ジャガー、坂本龍一など有名人を撮影したものが多かったです。
キースリチャーズのポートレート
ところでこのポートレートとは、肖像写真を指し、よく雑誌の表紙とかでモデルの顔がデデーン!となってるあれです。
ポートレートは人物にフォーカスした写真なので、普段我々はそれを鑑賞する際、そこから得られる印象をその人物自身に結びつけてしまいがちです。
その写真が持つ魅力は、写真内の人物がもつ魅力であると感じる、つまりそこでは撮影者の存在が希薄になりがちなわけです。
ですがこのアルバート・ワトソンの展示では、そのポートレートがキュレーションされることにより、撮影者であるワトソン自身の存在感が、作品全体を通奏するテーマとして浮かび上がってきます。
そしてそれこそが展示のタイトルにも掲げられている「Wild」です。
ここで使われているWildという単語は、野生というよりは、おそらく人間の生々しさ、生の躍動感、生命力といったニュアンスに近しいかと思われます。
会場内に展示された作品は、別個に見てもどれもが「生」のエネルギーに満ち溢れた、ダイナミズム感のあるイメージを作り出しています。
しかしそれらがアルバート・ワトソンという一人の写真家の作品としてキュレーションされた時、そのエネルギーは彼というフィルターを通して作り出されていることに気付かされるのです。
(さらに言うならば、このアルバート・ワトソンによるエネルギーの付与という点もまた、キュレーターによって抽出されたものです。)
そして一度そのことに気付くと、会場内のすべての作品はもはや個々の独立した作品として存在することは許されません。
あらゆる全ての作品には、アルバート・ワトソンという人物の感性が充満しているのです。
そこに我々は、写真というメディアが、いかに控えめに、それでいて大胆に作家性を反映し得るかを思い知るのです。
さて以上のようなアルバート・ワトソンの展示ですが、彼はポートレートを撮影する上で、被写体がもつ「Wild」という要素を抽出し、強調していました。
言い換えればこれは、彼が写真というイメージを作成する上で、その要素を「選択した」とすることができます。
この選択という行為は、写真というメディアにおいてはとても重要な特性であり、この記事で触れたいのはこの点についてです。
前置き長くない?
写真を撮影するうえで、すべての動作は選択の上に成り立っています。
被写体は何なのか、フレームには何を入れて何を入れないのか、色彩は、光は、あらゆる要素が選択の積み重ねになっています。
また出来上がった後の写真が選択に晒されることはさらに自明です。
出来の良し悪しで捨てられたり、アルバムやグリーティングカード向けに厳選されることは全く一般的なことですし、それこそこの、容易にイメージが置かれる状況を変化させられる、という点こそが芸術史上、ポストモダニズムの時代に写真が大きな役割を担えた理由です。
リチャード・ハミルトン《いったい何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力的にしているのか?》1963-66
そもそもですが、現代においては、写真に限らない、あらゆる芸術は選択を前提としています。
というのも、現代の芸術家の仕事とは、あるものをそれが元々あった文脈から切り離し、新たな価値を作り出すという行為そのものにこそある、という考え方のためです。
これはマルセル・デュシャンという芸術家の、レディメイドと呼ばれる作品によって決定付けられました。
レディメイドとは、便器や椅子、車輪など工場で作られる既製品を、それが本来決して置かれるはずのないミュージアムの展示という場に芸術家の手によって再配置されることで、既製品が持っていた意味を変容させてしまうというものです。
マルセル・デュシャン《泉》1917
これらの既製品はデュシャンとは無関係な場でデザインされ、制作されており、かつての芸術家が重視していた、オリジナリティのある作品を手作業で制作するという行為をデュシャンは放棄しています。
つまりレディメイドとは、芸術とは生み出された作品ではなく作家の概念であり、作家が選択するという行為こそが芸術を芸術たらしめている、と謳ったものなのです。
デュシャンのレディメイドによって、あらゆる芸術は境界を喪失し、レディメイドへと還元されることとなります。
例えば、絵画と呼ばれる芸術はつまるところカンバスと絵具を再配置したレディメイドであり、重要なのは絵画という在り方よりも、それをどのように選択してなにを表現するのか、というコンセプトです。
この、重要なのは作家の概念性であるという考え方(コンセプチュアリズムとも呼ぶ)こそが現代芸術の基盤であり、見た目よりも誰が作ったかで作品の値段が決まる理由です。
さて翻って話を写真に戻したいと思います。
現代では誰もが手軽に写真を撮影し、それを共有できる環境が整っています。
デジタル写真が主流になり、機材の性能も向上し、枚数制限を憂慮することもほぼなくなったと言えるでしょう。
また毎日友人の誰かしらが撮影した写真を目にして、そこから彼ら彼女らの近況を知り、コミュニケーションの種にしています。
すこし捻くれた考え方をすると、誰もがアマチュア写真家として、互いに作品を比較され続ける状況にあるわけです。
ですが僕が思うのは、こういった現代の状況は、おそらく歴史上もっとも、自分自身の感性について考える機会に恵まれているのではないか、ということです。
写真が選択の積み重ねであることは上記のとおりですが、多くの人はこれを無意識的に行っていると思います。
しかしこの行為こそが、作家であるあなた自身の感性がもっとも働いている瞬間であり、その点を自覚することは自分自身について知る上で大きな意味があります。
まず特定のなにかに対して写真に残したいと思うような魅力を感じる。
この心の動きは、写真とは全く無関係にあなた自身の根源的な感性からくるものです。
そしてその後の撮影に関わるあれこれの選択、これもあなた自身がもつ美しさ(だけとは限らないですが)の規範を掬い上げる行為です。
つまりその後に出来上がる写真のイメージとはあまり関係がないところで、あなた自身の感性は多大に発揮されているのです。
そもそもたいていの場合において、被写体を選んでいる時点で、あなたの感性の萌芽はある程度なされているでしょう。
そしてこれらが一枚一枚積み重なることで、あなた自身の感性を通奏しているものは何なのか、ということが見えてくる、というのはアルバート・ワトソンの展示について書いた通りです。
写真を撮るという行為は、ただ他者とのコミュニケーションだけでなく、自分自身について知ることにも直結しているのです。
そして自分自身が何に美しさを見出すのか、これを知ることは人生の実り深さにも関わってくるのではないでしょうか。
だからみんなもっとたくさん写真を撮ろう!
と思う初夏でした。