アベンジャーズとスパイダーマン
こんにちは、二ヶ月ぶりです。
関西では長い梅雨が明け熱い夏が始まりました。
友人から励ましの言葉を頂いたので、僕も頑張ってこのブログの更新頻度を上げていきたいと思います。
今回はこれまでの記事とは毛色が変わり、映画についての感想、のための短めな前振り記事です。
本題は次回でここでは映画観ることになったきっかけとかの所謂自分語りです。
アベンジャーズというマーベルコミックサーガのなかで、次世代を担うスーパーヒーローとして選ばれた彼についての僕なりのワクワク感を文章にしていきたいと思います。
次回を含む全体の結論としては、ファーフロムホーム最高!トムホ最高!!です。
※この記事は現在公開中の『スパイダーマン:ファーフロムホーム』や『アベンジャーズ:エンドゲーム』のネタバレが中心になっていますので気にする人は気にしてください。
先日、スパイダーマンシリーズの最新作、『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』が公開され、日本では世界最速となる6/28に上映開始となりました。
僕も結構楽しみにしていて、7月の頭に観に行ってきました。
といっても、僕はもともとアメコミについてそこまで詳しいわけではなく、かなり最近まで「アベンジャーズって流行ってるし気になるけど今までの全然観てないからな~」くらいの関心度でした。
そんな僕でしたが、アベンジャーズに興味を持つきっかけになったのは今年のGW。
里帰りしていた友人たちと集まった際、なんとはなしに皆で映画『アイアンマン』を鑑賞していたのですが、それを観ながらふと「スパイダーマンがトニースタークの作ったスーツ着たら強そうやな」と発言したところ、友人たちから「お前…実はホームカミング見てるな??」と謎の煽りを浴びます。
えっマジで作るの?そんなんめっちゃ面白くない??という思いとともに俄然興味を掻き立てられた僕は後日さっそく『スパイダーマン:ホームカミング』を鑑賞。
そして抱いた感想が
「トムホランドのピーターパーカー最高やん…好き…」でした。
スパイダーマンは過去2回、実写化のシリーズが制作されていますが、一応僕はそれらはチェック済みで、スパイダーマンの基本的なキャラクターは抑えていました。
蜘蛛の力を授かった理系のオタク、という設定は今回のスパイダーマンにも踏襲されていますが、本作のピーターパーカーはこれまでのシリーズの中で最も若く、ホームカミングの時点でなんと15歳です。
これは過去のシリーズと違い、本作がMCUとしてアベンジャーズの歴史を紡ぐ役割を背負い、成長していくためでしょう。
ですがそのため、本作のピーターは、より少年らしさや精神的な未熟さが強調されます。
そんな思春期真っ盛りの少年を熱演したトムホランド。
彼とスパイダーマンの特集記事が7/20発売の映画雑誌「SCREEN9月号」に載ってるからみんな買おう!
一緒に掲載されてるトムホの写真が冗談みたいに男前でビビるぞ!
あとその前月号もスパイダーマン特集だからついでに買おう!
つまるところ、僕はスパイダーマンやアベンジャーズに関して、そのものよりもまず先にピーターパーカーを演じるトムホランドという俳優にハマったのがはじまりでした。
さて、ホームカミングを観終えてそんな状態になったわけですが、続編を観るためには、『アベンジャーズ:エンドゲーム』の鑑賞は避けて通れません。
ネタバレを前提としたこの記事で今更説明は不要かもしれませんが、アベンジャーズの映画(マーベル・シネマティック・ユニバース通称MCU)は、マーベルコミックのヒーロー達が一つの世界観を共有しており、そのストーリーはフェイズで区切られます。
そして『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』は、フェイズ3の最後に位置しており、すなわち『アベンジャーズ:エンドゲーム』によって、キャプテンアメリカとアイアンマンを中心として進んできたこれまでのMCUが、一つの節目を迎え、次の時代にフェイズを移すためのあしがかりの作品となっています。
強大なヴィランであるサノスとの戦いを終え、傷ついた世界がどうやって失ったものと折り合いをつけていくのか、いなくなったスーパーヒーロー達が何を残したのか、ファーフロムホームはそういったものを描いた映画です。
一方でエンドゲームでは、アベンジャーズとサノスの戦いだけでなく、これまでのアベンジャーズを支えたキャプテンアメリカとアイアンマンのフィナーレとして、それぞれの過去にも彼ら自身が決着をつけることとなります。
タイムスリップによって、キャプテンアメリカであるスティーブはかつて愛した女性と、アイアンマンとして戦うトニーはかつて分かり合えなかった父と、共に過ごす時間を手に入れます。
ですが作中で度々説明されるように、彼らが行うタイムスリップは決して歴史の修正ではありません。
そのためスティーブはどれだけ愛する女性と共に過ごしていたくとも、いずれは再びそれを、今度は自らの手で放棄しなければならず、スターク親子がいくら過去で理解しあえたとしても、それによってトニーの死んだ父との思い出が急に幸せなものに変わったりはしません。
それでも彼らは、自らの過去を、スーパーヒーローとなった現在の自分が引き受けることによって、最後に自分自身を救うことができたのでしょう。
上の場面だけでなく、『アベンジャーズ:エンドゲーム』はその集大成としての意味合いから、何度も過去との対比が行われます。
その中でもおそらく最も多くの人の印象に残ったであろうシーンは、サノスとの戦いでクライマックスにアイアンマンが言い放ったセリフ
「私がアイアンマンだ」
の場面なのではないでしょうか。
このアイアンマンのセリフこそが、僕にとってはMCUにおいてスパイダーマンの位置づけを考える重要なきっかけとなりました。
そこで次回のテーマは「MCU作品同士の関係性から見たスパイダーマン」です。
前置きだけで記事一つ消費する無能。
どうぞよろしくお願いいたします。
写真を撮るということ
前回の投稿から1年以上経過していました。
気が付けば元号すら変わっていました。
こわい
最近、友人が教養主義に目覚め、美術館巡りにはまっています。
きっかけは不純異性交遊のための話題作りだったっぽいですが、それが転じて美術そのものに興味を持って結構しっかりと勉強されているようです。
なんであれ見聞を広めるのは素晴らしいことですし、彼は僕よりも賢いのですぐにいっぱしのアート語るおじさんになってくれるでしょう。
実際彼は訪れた展覧会の感想をブログやツイッターで共有してくれるので、僕自身かなり勉強になります。
ということで僕も最近観に行った写真の展覧会から少し思うところを書き起こそうと思いました。
内容としては、あまり展覧会自体の内容に関わるものではないのですが、写真そのものへの興味関心につながればいいかな、という感じです。
結論としては、みんな写真はとりあえずたくさん数を撮ろうってことです。
それでは本文どうぞ。
先日まで、京都では様々な場所で写真展を行う『KYOTOGRAPHIE』というイベントが開催されていました。
残念ながら期日が5/12までなので、この記事を読んでいただいた方がもし興味を持たれても、すでに終わっているのが悲しいところです。
この辺に僕の行動力のなさが伺えます。
さてそのKYOTOGRAPHIEですが、僕は京都文化博物館でやっていたアルバート・ワトソンという方の展示に行ってきました。
このアルバート・ワトソンという人物、存命の写真家で主にポートレートを多く撮影されていて、「VOGUE」などの雑誌の表紙も多く制作されています。
展示されている作品もヒッチコックやミック・ジャガー、坂本龍一など有名人を撮影したものが多かったです。
キースリチャーズのポートレート
ところでこのポートレートとは、肖像写真を指し、よく雑誌の表紙とかでモデルの顔がデデーン!となってるあれです。
ポートレートは人物にフォーカスした写真なので、普段我々はそれを鑑賞する際、そこから得られる印象をその人物自身に結びつけてしまいがちです。
その写真が持つ魅力は、写真内の人物がもつ魅力であると感じる、つまりそこでは撮影者の存在が希薄になりがちなわけです。
ですがこのアルバート・ワトソンの展示では、そのポートレートがキュレーションされることにより、撮影者であるワトソン自身の存在感が、作品全体を通奏するテーマとして浮かび上がってきます。
そしてそれこそが展示のタイトルにも掲げられている「Wild」です。
ここで使われているWildという単語は、野生というよりは、おそらく人間の生々しさ、生の躍動感、生命力といったニュアンスに近しいかと思われます。
会場内に展示された作品は、別個に見てもどれもが「生」のエネルギーに満ち溢れた、ダイナミズム感のあるイメージを作り出しています。
しかしそれらがアルバート・ワトソンという一人の写真家の作品としてキュレーションされた時、そのエネルギーは彼というフィルターを通して作り出されていることに気付かされるのです。
(さらに言うならば、このアルバート・ワトソンによるエネルギーの付与という点もまた、キュレーターによって抽出されたものです。)
そして一度そのことに気付くと、会場内のすべての作品はもはや個々の独立した作品として存在することは許されません。
あらゆる全ての作品には、アルバート・ワトソンという人物の感性が充満しているのです。
そこに我々は、写真というメディアが、いかに控えめに、それでいて大胆に作家性を反映し得るかを思い知るのです。
さて以上のようなアルバート・ワトソンの展示ですが、彼はポートレートを撮影する上で、被写体がもつ「Wild」という要素を抽出し、強調していました。
言い換えればこれは、彼が写真というイメージを作成する上で、その要素を「選択した」とすることができます。
この選択という行為は、写真というメディアにおいてはとても重要な特性であり、この記事で触れたいのはこの点についてです。
前置き長くない?
写真を撮影するうえで、すべての動作は選択の上に成り立っています。
被写体は何なのか、フレームには何を入れて何を入れないのか、色彩は、光は、あらゆる要素が選択の積み重ねになっています。
また出来上がった後の写真が選択に晒されることはさらに自明です。
出来の良し悪しで捨てられたり、アルバムやグリーティングカード向けに厳選されることは全く一般的なことですし、それこそこの、容易にイメージが置かれる状況を変化させられる、という点こそが芸術史上、ポストモダニズムの時代に写真が大きな役割を担えた理由です。
リチャード・ハミルトン《いったい何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力的にしているのか?》1963-66
そもそもですが、現代においては、写真に限らない、あらゆる芸術は選択を前提としています。
というのも、現代の芸術家の仕事とは、あるものをそれが元々あった文脈から切り離し、新たな価値を作り出すという行為そのものにこそある、という考え方のためです。
これはマルセル・デュシャンという芸術家の、レディメイドと呼ばれる作品によって決定付けられました。
レディメイドとは、便器や椅子、車輪など工場で作られる既製品を、それが本来決して置かれるはずのないミュージアムの展示という場に芸術家の手によって再配置されることで、既製品が持っていた意味を変容させてしまうというものです。
マルセル・デュシャン《泉》1917
これらの既製品はデュシャンとは無関係な場でデザインされ、制作されており、かつての芸術家が重視していた、オリジナリティのある作品を手作業で制作するという行為をデュシャンは放棄しています。
つまりレディメイドとは、芸術とは生み出された作品ではなく作家の概念であり、作家が選択するという行為こそが芸術を芸術たらしめている、と謳ったものなのです。
デュシャンのレディメイドによって、あらゆる芸術は境界を喪失し、レディメイドへと還元されることとなります。
例えば、絵画と呼ばれる芸術はつまるところカンバスと絵具を再配置したレディメイドであり、重要なのは絵画という在り方よりも、それをどのように選択してなにを表現するのか、というコンセプトです。
この、重要なのは作家の概念性であるという考え方(コンセプチュアリズムとも呼ぶ)こそが現代芸術の基盤であり、見た目よりも誰が作ったかで作品の値段が決まる理由です。
さて翻って話を写真に戻したいと思います。
現代では誰もが手軽に写真を撮影し、それを共有できる環境が整っています。
デジタル写真が主流になり、機材の性能も向上し、枚数制限を憂慮することもほぼなくなったと言えるでしょう。
また毎日友人の誰かしらが撮影した写真を目にして、そこから彼ら彼女らの近況を知り、コミュニケーションの種にしています。
すこし捻くれた考え方をすると、誰もがアマチュア写真家として、互いに作品を比較され続ける状況にあるわけです。
ですが僕が思うのは、こういった現代の状況は、おそらく歴史上もっとも、自分自身の感性について考える機会に恵まれているのではないか、ということです。
写真が選択の積み重ねであることは上記のとおりですが、多くの人はこれを無意識的に行っていると思います。
しかしこの行為こそが、作家であるあなた自身の感性がもっとも働いている瞬間であり、その点を自覚することは自分自身について知る上で大きな意味があります。
まず特定のなにかに対して写真に残したいと思うような魅力を感じる。
この心の動きは、写真とは全く無関係にあなた自身の根源的な感性からくるものです。
そしてその後の撮影に関わるあれこれの選択、これもあなた自身がもつ美しさ(だけとは限らないですが)の規範を掬い上げる行為です。
つまりその後に出来上がる写真のイメージとはあまり関係がないところで、あなた自身の感性は多大に発揮されているのです。
そもそもたいていの場合において、被写体を選んでいる時点で、あなたの感性の萌芽はある程度なされているでしょう。
そしてこれらが一枚一枚積み重なることで、あなた自身の感性を通奏しているものは何なのか、ということが見えてくる、というのはアルバート・ワトソンの展示について書いた通りです。
写真を撮るという行為は、ただ他者とのコミュニケーションだけでなく、自分自身について知ることにも直結しているのです。
そして自分自身が何に美しさを見出すのか、これを知ることは人生の実り深さにも関わってくるのではないでしょうか。
だからみんなもっとたくさん写真を撮ろう!
と思う初夏でした。
「モネの睡蓮」について
世間はゴールデンウィークですが皆さんいかがお過ごしでしょうか。
僕は友人に誘われているBBQの日以外は家に引きこもって一日中ゲームしていたい所存であります。
とはいえ世の中には、せっかく休みやしちょっと外出もしときたいな~でも特に行きたいところもないな~という暇人もいらっしゃることでしょう。
そんなあなたにおすすめの提案がコチラ!じゃじゃん!
名古屋市美術館開館30周年記念 モネ それからの100年:中日新聞(CHUNICHI Web)
というわけで今回の記事のテーマは「モネの睡蓮」についての小噺でござーい。
美術とかあんまりよくわからんし…っていう人でもこれを読めば女の子と美術館デートしてちょっと話題を提供できるくらいにはなれるよ!
美術にまったく興味のない人でもモネの睡蓮といえば名前くらいは聞き覚えがあるのではないでしょうか。
睡蓮 1906
ところでモネの睡蓮ですが、関西だと京都のアサヒビール大山崎山荘美術館、関東だと国立西洋美術館なんかに常設展示されています。
僕的には現在人がいっぱいの名古屋よりもこちらを強くお勧めしたいです。
特に大山崎山荘美術館。
レトロで素晴らしい洋館とそれにくっついた安藤忠雄の謎建築も楽しめます。
関西在住の方は是非一度足を運んでください。
さて話を戻してモネの睡蓮について。
モネは「印象派」と呼ばれるグループを代表する画家で、19世紀終わりから20世紀初頭にかけて活躍しました。
補足ですが印象派というのは、印象的な絵画を描く派閥、みたいな意味ではなく、印象派展と呼ばれる展覧会に参加していた画家たちを一括りにした呼び名です。
その展覧会は当時の美術界から批判的な評価を受け、特にモネの『印象・日の入り』という作品が注目され、そこから後になって印象派展と呼ばれるようになります。
印象・日の入り 1872
では印象派とはいったいどのような集団であったのかという話ですが、詳しい話は長くなる&既に腐るほど世間にあるので割愛。
簡単にいうと、我々が見ている世界を、視覚的に再現するのはどうすればいいのかを追求していった集団と言えるでしょう。
それではそんな印象派であるモネの絵画『睡蓮』に話を移していきたいと思います。
睡蓮と日本風の橋 1897
池に浮かぶ睡蓮という画題はモネにとって重要なテーマを持っていたようで、彼はそれを画家生活の中の様々な時期に何度も描いています。
睡蓮の絵が美術史的にどう素晴らしいのかについて解説するのがこの記事の目的ではあるのですが、それも印象派についての解説同様、世間にはたくさん溢れています。
ですので今回は、世間一般でよく目にするようなものとはほんのちょっとだけ違う角度から睡蓮の絵を見ていきたいと思います。
まず一般的になされている睡蓮の解説は、美術史における印象派の立ち位置とセットで語られることが多いです。
先に印象派は、現実世界を視覚的に再現することを目指したと述べましたが、例えばモネの場合、それはいかにして光を描くのか、という問題意識として表れています。
木々の木漏れ日や水面の反射など、我々に"見える"世界は光のきらめきに満ちています。
しかしこれを絵画、絵具でいかに再現するのか、ということが意外と難しい。
なぜなら油絵具は混ぜ合わせることによって欲しい色を作るのですが、色を混ぜるほどその絵具自体の色鮮やかさは落ちていくためです。
そこでモネ(というか印象派の画家達)が生み出したのが筆触分割とよばれる技法でした。
これは例えば葉っぱを描く際に、青と黄色の絵具を混ぜて緑色を作るのではなく、青と黄色を原色のまま細かく塗ることで、鑑賞者にはそれがまるで緑色に見えるというものです。
実際には色を混ぜ合わせないことによって絵具の鮮やかさを保ち、それによって光の鮮やかさを描写しようとしたのです。
もちろんこの筆触分割はモネの絵画のスペシャルのほんの一例です。
(むしろ筆触分割という技法自体は後の時代で行き詰まりを迎えたとされることも多いです。)
モネの絵画には他にもたくさんの重要で美しい特徴がありますが、書きだすとキリがないので興味を持たれた方は是非調べてみてください。そして教えてください。
さらにその他の特徴としては、風景画というジャンルはそれまではあまり描かれない、珍しい画題であったという点も重要です。
印象派が活躍した時代は絵具のチューブが発明された時期であり、これによって画家は外に出かけて絵を描くことが可能になります。
見ながら塗る、という行為がアトリエのモデルに対してのみに留まらなくなったわけですね。
もうひとつ、写真術が生まれたのもこの時期です。
写真を撮ること(覗き込み、フレーミングすること)、そして出来上がった写真が持つ、かつてのイメージにはない描写力は、世界の捉え方に変化をもたらしたであろうことは想像に難くありません。
つまり画家にとっては"見る"という行為への意識やそれが持つ意義に大きな変化が訪れていたタイミングであったと言えます。
モネの絵画はこういう時代に描かれていたってなわけですね。
ではここからやっと睡蓮についてのちょっと違う角度からの話。
にするつもりだったんですが、想定以上に前振りが長くなってしまったのでつづく。
書かなさそう
みじょれ先輩に学ぶ近代絵画
タイトルのみじょれ先輩とは、京都アニメーションによる2016年放映のアニメ「響け!ユーフォニアム2」における登場人物である。
たしかオーボエ奏者であったと思う。
このアニメは思春期にありがちなドロドロした友情関係にも光を当てており、その辺の心理描写はさすが小説原作といえる。
あと全編通して映像と音が抜群に素晴らしい。さすが京アニ。宇治が生み出した唯一の奇跡。
さあみんな円盤を買おう。
しかし今回のブログはいかにこのアニメの作画が美しいかとかを語るものではありません。
もっというとタイトルのみじょれ先輩もそこまで本旨と関係はないです。
ではなぜみじょれ先輩かというとまずこちらのgifを見ていただきたい。
みじょれ~
たしかこれは1話で、みじょれ先輩がバスに揺られながら窓を見ているシーンだったはず。
放送当時はなんとなく流していた場面なんですが、最近ふと見直したら、実はなかなか面白い構図になってるのではないかと思いすこし考えてみました。
まずこのカットには何が描かれているのでしょうか。
シーンの説明としては上に書いた通り、バスの中から女の子が窓を見ているっていう状況ですし、これはけっこう誰でも体験するようなことではないかとは思います。
ですが、このカットは彼女自身を描いてはいません。そこにあるのはガラスに映る彼女の像です。そしてその像はまっすぐにこちらを見ています。
つまりこの時、カメラは彼女の目に重なり、我々の目に映るのは彼女が見ている光景です。
このときの劇中人物の目と観客の目の関係みたいなのって、個人的にはかなり興味深いテーマなので、それはそれで後日に別のブログにまとめたいと思います。
でもとりあえずそれは置いといて、今回注目したいのは彼女のピントにあります。
画面を見る我々の目が彼女の目に重なるのならば、画面のピントは彼女が見ているものに合います。
そしてこのカットにおいてピントが合っているのが、窓に映る彼女自身の像です。
ということは彼女の視線(=観客である我々の視線)は、窓の外に伸びるのではなく、窓の表面に乗った光の像へと着地することとなります。
ではここでもう一度、このカットに何が描かれているのか、そして彼女が何を視ているのかを、次は物理的な意味で考えるとどうなるでしょうか。
実はそこにあるのは、窓ガラス、ただそれだけです。
窓の外の街並み、そこから滲む光、そして彼女が見ている彼女自身の像、これらは全て視線の先には存在しません。そこにはただ一枚の平面、ガラスがあるのみなのです。
にもかかわらず、その存在だけはこのカット内には描かれていません。
なぜならこの窓ガラスは、光を乗せるためのスクリーンであり、そのため我々の意識の外にあるからです。(映画館で上映中にスクリーンの存在を意識する人はいませんよね)
余談ですが、この、一枚の平面だけがあるっていう考え方は、両目ではなく片目だけのカットにしているあたり、おそらく制作された方もある程度は意識しているんじゃないかなとは思います。
今自分たちが見ているのは一枚の平面なのだ、そのことに気付いた時、我々の見ている画面は限りなく窓ガラスに重なった一枚のスクリーンへと転じます。
窓ガラスが認識外にあったように、それを劇として映していたディスプレイもまた認識の外にあるものです。
さてではこれがどのようにして近代絵画に繋がっていくのか。
疲れたので次号
『PUBG』について
ブログ開設したものの、ほぼ一か月経ったのにまだなにも書いてない。やばいぞ。
でも実際書くネタになるようなイベントがそんなにないよね。そっちの方がやばい気がする。
最近はPUBGなるゲームが楽しい、前から楽しかったけど。
テスト鯖に砂漠地帯のマップが追加されたことで、自分がこのゲームに抱いていた漠然としたノスタルジック?な印象がもう少し浮き彫りになったような感がある。
このゲーム、内容としてはマップ内で生き残りを目指して殺し合うという、きわめて単純なルールである。
開発者的には着想を映画『バトル・ロワイアル』から得ているらしく、ゲーム内にもそれに対するオマージュが方々にちりばめられている。
でも個人的には、PUBGをしていて思い浮かぶのは、『マッドマックス』とか、『ゾンビ』みたいな、ポストアポカリプスもので、自分がこのゲームに楽しさを感じているのはこの雰囲気みたいなものによるところが大きいんじゃないかな、と考えています。
PUBGは別にテーマとしてポストアポカリプスを掲げているわけでもないし、そもそもそんな設定自体無いと思うんですが、自分がなぜこのゲームに対してそんなふうに感じているのかを少し考えてみた。
PUBGの勝利条件は最後まで生き残ることで、そのためのプレイスタイルは大別すると2種類。片っ端から出会う人間をキルしていって装備を奪っていくタイプと、交戦を避けて人がいなさそうな場所を探して装備を集めるタイプ。
自分は撃ち合いが得意でもないので後者のスタイルで遊ぶのだが、そうなるとプレイ時間の多くは移動と探索に費やすことになる。
PUBGは設計上、人口分布の偏りができやすく、それがある程度は予測しやすいので、最初に人がいなさそうな地帯を選ぶとゲーム終盤まで人と出会わずに進めることも多い。(でもいつかは殺し合いに巻き込まれる。)
ところで装備を集める時間と、他のプレイヤーと撃ち合う時間を他のジャンルのゲームに当てはめるなら、装備集めは探索とかサイドクエスト、撃ち合いはメインクエストとかボス戦になると思う。
このメインとサイドって、本来はやっぱり幹と枝になってるはずで、ゲーム上の世界にどうやって配置するかはデザインが必要な領域、つまり働きと報酬のバランスを予め設定して作られている。
でもPUBGではそういうものは一切ない。なぜなら対人ゲームなので、どこへいってもNPCなんて存在しないから。キノコ集めを頼んでくる村人とか放射能で突然変異した犬とかもいない。難易度と報酬がまったく釣り合ってない。
人里離れた山小屋で星5SKS拾えることもあるし、人口密集地で大立ち回りしても変なメガネしか得られないこともある。
実際のところは、最初に到達できる距離とかマップ収縮の関係で全くの無関係とは言えないけど、今回のテーマはそういう戦略とかじゃないからパスで。
こんなこと書くと一緒にやっている人に真面目にやれって怒られそうだが、無人の町から無人の町へ、物資を求めて車で移動していると、不思議に牧歌的というか、なんだかのんびりとしているように感じられる。
これはつまり上のことが理由なんだと思う。なぜなら接敵した場合のことを無視できるのなら、それは途端にクエストのないトレジャーハントになるから。敵がいないとなればこんなにのんびりしたゲームはない。
そしてもう一点。シューティングゲームは音情報による敵の位置把握が重要なので、多くの場合ゲーム中にはBGMが流れない。PUBGもその例に漏れず、BGMはない。ていうかメニュー画面とかでもおそらく流れてない。
そしてこのBGMナシっていうのが、プレイしていると絶妙な演出になってるように思う。
確かに戦うためには音情報は重要なんだけど、このゲームは、交戦以外の時間は、やっている感覚としてはシューティングゲームというよりはARPGとかに近しい。RPGでBGMがないとかなりの寂寥感がある。
なのでこの交戦以外の時間が長い人にとっては、ゲーム全体がやたら静かである。
GTAみたいに乗車時にラジオが流れたりもしない、町に着いてもそこは無人、聞こえるのは環境音だけ。この辺がポストアポカリプスっぽさにつながってるんだろうなと思う。『アイアムレジェンド』の予告っぽい。
時折遠くで銃声が聞こえる、まあ自分たちには関係ないな。ドアが開いた音にドキッとしたらフレだった。驚かせんなぶっ殺すぞ。
すると突然のエンジン音!
騒々しく突っ込んでくるバイクとヴァズ!ヒャッハー
鳴り響く銃声!!
…
まあこんな日もあるのさ!
このブログについて
このブログは、普段自分が見聞きして感じたことを整理するために開設されたものです。
おそらく主なテーマはゲーム、写真、絵画などになってくるかと思います。